気まぐれ日記 2014年9月
2014年8月はここ
9月1日(月)「また徹夜か?・・・の風さん」
月末締め切りの原稿が完成したら、今日は、外出して一気に用事を済ませようと思っていた。
が、昨日はとうとうゴールに到達できなかった。
徹夜しても無理そうだったので、普通に就寝し、朝から頑張ることにした。
昨夜からの雨は次第に強くなる一方だった。外出はすべてやめて、執筆に専念することにした。
原稿の目標枚数は30枚だが、元原稿は70枚をこえていた。これを削りながら形を整えて、論旨を明確にしなければならない。
なかなか厄介な作業である。疲労でボーッとした頭脳でできることではない。
休み休み作業を続けたが、夜になってもできなかった。
締め切りを1日過ぎたので、フォローのメールも来た。
何が何でも今夜中にある程度の原稿を送らねばならない。
午前零時に、半徹夜態勢に突入した。
いつになったら、こんな状態から抜け出せるのだろう。
9月2日(火)「半徹夜明け・・・の風さん」
昨日の原稿は、結局、今朝の3時半ころに形が整ったので、取りまとめをされている先生へお送りした。
その後、書斎で約6時間も寝てしまった。
とりあえず原稿を送ることができたせいか、目覚めたら快晴だった(笑)。
ゆっくり朝食を摂り、LINEゲームに興じてから、昨日できなかった用事を済ませるため、キャメロンで出かけた。
JAでお金をおろし、UFJ銀行の窓口で振り込み、役所へ行き、大型家電量販店へ行ってインクカートリッジなどを購入していったん帰宅。
すぐに必要な書類をそろえて、町役場へ行った。この用事は今日突然発生したものだが、難なく終えることができた。
町役場の玄関前に、十代と思われる女暴音族のバイクが出現した。人数は3人。平和ボケ現象の一つに見えるのは、私が老人だからか。
夕食後、某大学の教員応募書類を作成した。慣れたもので、2時間ほどでできた。
それから、中小企業に関する本を読みだしたが、疲れがどっと出てきたので、早々に就寝することにした。
明日はまともな1日を過ごしたいものだ。
9月3日(水)「今日も雑務を処理・・・の風さん」
普通に起床した。今日も好い天気だ。
9時半にキャメロンで自宅を出、定期的に検査と歯石除去をしてもらっている歯医者へ行った。
年とって歯を失うのは歯周病だと知ったので、歯医者通いはずっと続きそうだ。大学時代に度胸試しに親知らずを抜きに行ってから、歯医者大好き人間になってしまった(笑)。近年は新たな虫歯はほとんど発生せず、かつて治療した部位のメンテナンスと歯周病対策が中心である。
歯医者で中小企業に関する本を1章だけ読んだ。
帰りに郵便局に寄り、また昨日の再現で、大型家電量販店、役場を回って帰宅。家で遅いインスタントラーメンを食べた。
少し仮眠してから書斎で雑務を始めた。
雑務は夕食をはさんでさらに続き、就寝前に、再び中小企業関係の本を2章読んだ。視点が斜めの本なので、とても勉強になる。
次女はサマースクールを先週終えて、大学の寮に引っ越した。4人でシェアするタイプとのこと。いよいよ本格的な留学のスタートだ。
9月4日(木)「我が家のデング熱対策・・・の風さん」
朝食を摂っているダイニングの出窓で、久しぶりにケロ吉を発見した。ガラスの下の桟に乗っていた。
早速Aiphoneでパチリ。家族でシェアしているLINEにアップする。こいつも認定家族だ。
東京ではヒトスジシマカという蚊が原因でデング熱が発生している。この蚊がどうやってウィルスを取り込んだかが問題だが、私の仮説は突飛なもので、そもそもウィルスを持った蚊が台風などの上昇気流に乗って南方から飛来したというもの。近年の異常気象からすれば、これくらいのこと、あっても変ではないのではないか。
日本の南半分は亜熱帯地方だ、とは昔から言われている表現だが、今では全国土が亜熱帯化しているような気がする。
そうなると、デング熱はおろかマラリア(ハマダラ蚊が媒介)だって普通のことになってしまうだろう。
我が家はケロ吉やぴょん吉を家族にして防衛するつもりだ。
エボラ出血熱についても心配だが、今はコメントする力がない。少なくともこの地域にコウモリは見られない。
夜、2階の洗面所でミユキちゃんを発見した。
ミユキちゃんとは私がイモリにつけた名前だ。通常出現するのは、キッチンの窓で、我が家の明かりに集まってくる虫をそこで捕食するため、ガラスの向こうにへばりついている。白い腹や吸盤が丸見えで可愛い。ワイフに言わせると2匹いて、どちらもメスらしい。とりあえず、どちらもミユキちゃんと呼んでいる。
どうやって2階の洗面所までやってきたのか分からないが、灰白色の小さいやつで、チョロチョロと尾を振りながらすばしこく動く。ヤスデのようにつかまえて外へ逃がすのは困難だ。乱暴をすると尻尾を落として逃げるだろう。
ミユキちゃんも我が家の周辺の虫を捕食してくれるので、家族だ。
残念ながら、iPhoneで写真を撮ることはできなかった。
9月5日(金)「お疲れ・・・の風さん」
JMAの仕事で電車で出かけた。生産技術マネジメント研究会の最初の会合で、場所は金山のホテルで1泊である。
午前中が発足式で講演も聴講した。午後から早速ふたつの分科会に分かれてディスカッションが始まった。
グローバル生産技術者が話題で、私には非常に関心のあるテーマだ。しかし、たまたま私の担当する分科会は経験者が少なく、今後、情報を外部からもっと入手する必要がありそうだった。
夜は立食式の懇親会になったが、お疲れ状態の私はビールもあまり飲まず、お開きの10分前に退室して部屋へ引き取った。
皆はきっと外へ2次会へ出かけたろう。
部屋でもぐったりしていた私は、たまっている仕事をやる気力も起きず、目覚ましを4時にセットして、9時前にベッドに倒れ込んだ。
9月6日(土)「カレー粥とは?・・・の風さん」
結局、5時起床。
少し読書をし、PCを立ち上げて執筆などの準備を完了してから、朝食を摂りに行った。
知人と1時間近く話し込んでしまった。これが私の欠点でもあり美点でもある。
フロントにチェックアウトが11時頃になることを告げてから部屋に戻った。
午前中は講演とテストがあるが、私の同席は必須ではないので、パスすることにしたのだ。
11時までに角倉研究会の原稿の見直しを終えた。あとは挿入する画像を選択するだけだ。
チェックアウト後、セミナー会場のある建物へ行き、1階のラウンジでカップコーヒーを飲みながら、11月出版予定の本の校閲原稿に加筆する作業を始めたが、これは分量が多いので、少ししかできなかった。
昼食後、研究会に合流した。
昨日に続いてグローバル生産技術者についてディスカッションになったが、ネタ不足を感じた。ネタ収集を宿題にすることを提案した。
3時に先輩アドバイザーと一緒に退室した。
帰宅し、雑務を処理しているうちに、天候が急変し、土砂降りになった。
名古屋へ出かけているワイフからメールがあり、ご飯を炊いておいて欲しいというので、了解した。
ところが、ワイフが帰宅し、炊き上がったはずの炊飯器を開けて絶句。お粥ができていた。
3合炊くはずが、2合しかお米を用意せず、3合分の水を入れたからである。
晩御飯は、カレーライスのはずが、カレー粥になった。
ワインを2杯飲んだため(今朝は早起きだったし)、リビングでダウンした。
9月7日(日)「忙中閑あり?・・・の風さん」
目が覚めたら午前1時半だった。これではいけないと思いつつ、ヨッコラショ、と体を起こして書斎へ向かった。
執念で午前3時半まで頑張って再びダウン。
今朝は8時半に起床。
朝食後、今週の講義のテキスト作成の続きをやった。どうしてこんなに手こずっているのかよく分からない。おそらく理想に対して満足したものがイメージできないため、モチベーションが上がらないのだろう。創造的な仕事というのは得てしてこういうものだ。
昼食後、快晴の空の下、名古屋へ出かけた。
名商大ビジネススクールの半年に一度開催されているゼミである。卒業研究の発表と懇親会で構成されているのだが、まだ卒業研究に着手していない学生も、すべて過去のものになりつつあるOBも、他のゼミの人間もやってくる。他人の発表は勉強になるし、情報交換が貴重なことを誰しも知っているからだろう。
私の場合、往復の歩行(たいした距離ではないが)は運動になるし、仕事が膠着状況になっているときは気分転換になる。
たくさん集まった中に、会社の元部下がいてビックリした。今年4月に入学したのだという。前向きの姿勢がうれしかった。
懇親会にも参加したが、帰宅してから仕事をするつもりの私としては、あまり痛飲もできないし、高吟もできない。いつもよりおとなしくしていた。
1次会が終了したので、さっさと家路についたが、あとで居酒屋の前で集合写真を撮ったことを知った。残念。
今日は往復の車中で、各1章計2章読んだ。
10時に帰宅したが、ワイフと雑談しながらLINEゲームなどやって、午前零時から仕事に戻った。
午前3時にダウン。
9月8日(月)「怒濤の1週間の予感・・・の風さん」
1週間おいて、また怒濤の1週間が始まった気配がする。
未明に何か閃光が走った感覚があって一瞬目が覚めた。あとで、電気器具類に不審な様子があり、どうも停電があったらしい。
つけっぱなしだった電灯が消えていて、停電が復帰すると同時に再び点灯したのだ。
不穏な週明けの予感もしてきた。
それでも、起床後、できるだけ無心になって作業に取り組んだ。
ずっと頭の中でもやもやしていた仕事に弾みついた。木曜日の講義で使うテキスト原稿なのだが、気持ち的にはオリジナルなものを作りたい、しかし今は、そんな実力も時間もない。分かってはいるが、わたしの性格なのだろう、なかなか割り切った考え方になれない。
とはいえ、さすがに締め切り寸前となると、もう諦めるしかない。それでも仕事放棄はもちろんやらない。最後の手段に出た。各原稿をフォーマット化した。実際はスライドマスターで全ページに主催者の名称を入れ、出典を明らかにしながら、できるだけ既存の資料を流用することにしたのだ。
夕食前までに立派なそしてかなりボリュームのあるテキスト原稿が完成した。
夕食後も執念で頑張った。
校正中の原稿の続きを1章分やった(毎日1章ずつやっている)。
昨年来取り組んでいる角倉研究会の原稿をほぼ完成させて、午前零時ころメール送信した。挿入図がまだできていないので、1週間後にお送りしますと書いた。
シャワーを浴びても寝るわけにはいかない。
金曜日の講演のときに販売する本にサインをした。
9月9日(火)「楽しい講演スライド作成・・・の風さん」
朝から快晴である。残暑は厳しいが、わたしにとっては秋晴れだ。そう思うと気分がいいからで、わたしは1年中で秋が一番好きなのだ。
やらねければならないことは山のようにあるが、屋内競技ばかりではない、屋外競技もある(なんのこっちゃ)。
キャメロンで出かけた。
先ず、役所へ行き、続いてガソリンスタンドに向かい、給油とワックス洗車して帰宅した。
外の用事はこれだけにした。
今日は金曜日の講演スライドの作成に取り組んだ。
この仕事は楽しい作業になった。同じ元ネタでも、聴講者に合わせて中心テーマを決め、そのときだけのオリジナルスライドを盛り込む。
今回は10年前からある期間集中して取り組んだ会社の仕事との関連性があって、それらを生かすことができた。
この仕事は会社のプロジェクト活動だったが、既に若くもないわたしが、まるで書生気分で夢中で取り組んだ仕事だったので、講演で使えば説得力があるのは間違いなかった。
スライドが完成して達成感をおぼえた。
校正中の原稿も1章だけやった。これで通算4章分だ。
明日からキャメロンで出かけるので、荷物が増えるのは問題ないが、とにかく準備が大変だった。
9月10日(水)「両親の育った土地を通って・・・の風さん」
毎日就寝時刻と起床時刻が変動するが、今朝もそのペースは崩さず、普通に起きた。
キャメロンにたくさん荷物を詰め込んで、家を出発したのは午前10時15分くらいだった。
今日の目的地は東京都東大和市である。
夕方までに着くのは楽勝だろうと思っていた。
ところが、地元の知多半島有料道路で、中央分離帯の草刈りをやっていて、早くも渋滞に引っかかった。
キャメロンはマニュアルなので、こういうのは苦手だ。疲労する。
しかし、その後は順調だった。
新東名に入って、懐かしい浜松サービスエリアに寄った。うなぎエクレアを買ってスマホで撮影してラインへアップした。道中はときどき無事なことを知らせるのがいい。
新東名は舗装が良いので、サスの硬いキャメロンでもまったく問題ない。パワーがあるので、ドライブは快調だ。
天気はまずまずかと思われたが、ときどき小雨が降って来た。富士山など見えるわけがない。
厚木のあたりから東名を離れ、武蔵野方面へと向かうのだが、有料道路をおりてから面白いことが起きた。
相模原でかつて何度も出張した某社の正門前を通過したのである。
その後、現れて来る地名は、青梅と立川出身だった両親の口から何度も出て来た親戚のいる地名ばかりだった。
昔はもっともっとひなびた地域だったのだろうが、今は亡き両親の育った地域をキャメロンで走っているわたしを、天国の両親に見せたいと思った。
急いだわけではないが、目標の午後6時前に目的地に着いた。
初めての場所、中小企業大学校東京校である。
寮にチェックインし、広い構内施設を案内してもらい、午後7時には寮の食堂で夕食を摂った。あまり人はいなかった。
実は、来週もここへ来るのだが、来週分の講義のテキストができていなかった。
金曜日の朝には欲しいと言われたので、どう考えても、今夜できるだけ仕上げておくしかなかった。
9月11日(木)「武蔵野のホテルへ移動・・・の風さん」
ずっとテキスト原稿作成を続けていて、寝たのは今朝の4時だった。
無茶をやっていることは分かっているが、追い詰められているから仕方ない。
8時に起床し、遅い時間帯に朝食を摂りに行ったら、また人気のあまりない食堂で食事をすることになった。
食堂にはテレビがあって、昨日の東京は局所的に豪雨だったことを知った。1時間に100ミリも降ったという。災害が起きてもおかしくないレベルだ。
講義は10時からだったが、30分前には講義室に入って準備を開始した。
受講者は若い技術者ばかりで、どれくらいの基礎知識があるか分からないので、確認しながら講義を進めて行った。
今回の講義が最初で、6回続く。JMAの生産技術マネジメント研究会もこれからが本格活動になるので、今年度後半になってようやく仕事らしい仕事をすることになる。
これまでは、どんなに大変でもテンポラリーなものばかりで、アルバイトとも言えないものばかりである。
とはいえ、ここもJMAの仕事も来年もあるかどうかは分からない。
やはりわたしは作家である。執筆中心の生活に早く入らねばならない。
寝不足だったが何とかぶっ倒れることもなく、午後5時まで講義を全うした。
今日の講義の途中、当地は豪雨になり、東京雨男のわたしだが運良く外で降られることはなかった。
明日の講演のために、宿泊するホテルへ向かって出発した。キャメロンは土砂降りでかなり汚かったので、きれいにする必要があった。
次のホテルには連泊するのだが、場所は武蔵野地域内だった。
着いてすぐ荷物をおろし、近所のレストランに夕食を摂りに行った。とりあえず食べ物で体力をつけるしかなかった。
講義のテキスト原稿は、午後11時までに完成し、メール送信できた。
しかし、もう一つ、今夜中に途中だった原稿の校正を終えなければならなかったのだが、それはできなかった。
半分まで完了したところで、出版社へメール送信し、残りは毎日少しずつ送ると書いた。
就寝は午前3時。昨日より1時間早い。それで満足するしかなかった。
9月12日(金)「亡き両親を想う・・・の風さん」
約5時間の睡眠で起床した。ふだんなら決して短か過ぎない睡眠時間だが、連日無理をしているので、この程度の時間では全然足りないだろう。
9時に朝食のレストランに行くと、客がほとんどいない。最近のわたしはこのパターンが多い。普通の人より常に遅れているのだ。
朝食バイキングを独り占めした気分で最高だったが、本当にきれいな食べ物のレイアウトだった。
なるべく体に良いものを選んで食べた。暴飲暴食は避けた(当然か)。
午前11時頃にホテルを出たが、2時間後に戻って来る予定である。連泊なので、部屋の掃除は不要です、と掃除の担当者とフロントに告げた。
電車を乗り継いで、お茶の水女子大学へ向かった。
門で手続きをして、真島先生と学食でご飯を食べながら打ち合わせをし、それから付属図書館に寄ってまた自分の著書を3冊寄贈した。
まだガラスケースに和算関係の本を展示してあり、先日寄贈した本が並んでいた。真島先生とのツーショット写真も飾ってあった。
これで自分の本は9冊、ここの図書館に収蔵されていることになる。
今から数十年か百年先まで収蔵してくれて、もし自分の孫かひ孫が、お茶の水女子大学に入ったなら「あ! お爺ちゃん(あるいは曾お爺ちゃん)の本があった!」と喜んでくれるかもしれない。ま、そんなことを想像して(実現しなくても、目撃できなくても)満足して死んで行くのが人間なのだな、と思った。
昨日は、両親が育った(ということは祖父母が暮らした)土地を、キャメロンで私は初めて疾走したことをまた思い出した。
お茶の水女子大学の門を出るとき、もらったバッジのカバーをなくしてしまったことを守衛に指摘された。
そこで、急に、ホテルの部屋のキーを兼ねているメンバーズカードの有無が気になった。
ところが、いくら探しても見つからないのである。
乗り換えの駅からホテルへ電話して、事情を話したら、新しいカードを作っておいてくれるという。
とうとうカードは見つからなかった。明らかにどこかで落としたのだ。
ホテルで少し作業をしてから、また出かけた。作家として講演するためである。
月曜日に楽しく作成した講演スライドなので、わたしも楽しみだった。
現地に着くと「和算に興味があって、今日の講演を楽しみにしていました」という方が何人かみえて、これは幸先いいぞ、と思った。
はたして講演は非常に歓迎され、わたしも楽しく話させてもらった。
懇親会でも親しく交流でき、閉会が名残惜しいくらいだった。
その後、今回の講演のために私を推薦してくださった方と和算に興味のある方と3人で二次会に出かけた。
そこでも、話はいつ果てるともなく続いた。
充実感と達成感を味わうことができて、本当に幸せ者だと思ったが、これは亡き両親の導きかもしれなかった。
ホテルに戻ってからも、継続中の原稿校正を続けた。残り半分の3分の1をやった。
9月13日(土)「長旅から帰宅・・・の風さん」
今日の最大のミッションは無事に帰ることである。
約6時間の睡眠をとって、けっこう元気になった気がして起床した(笑)。
8時半に朝食を摂りに行ったら、3連休の初日というのもあるのだろう、宿泊客が多く、レストランは混んでいた。
それでも、好きなものだけしっかりとって、ゆっくり腹の中におさめた。
すべてを落ち着いてこなしているので、今日は何かをなくすようなヘマはしないことを期待している。
駐車場で、荷物の整理やナビのセットなど、ゆっくりゆっくりやっていたら、キャメロンの中に蚊が飛び込んで来て、左手を刺された。
一瞬脳裏を「デング熱」の文字が走った。ヒトスジシマカでないことを祈った。
今日は首都高などを利用せずに帰りたかったので、これから一般道をかなり走る。蚊を追い出すため、窓を開放して走った。
時間の経過とともに暑くなってきた。日差しもどんどん強くなった。
一般道を選んだのはよいとして、選択したルートは失敗だった。ずっと混雑していたのである。一昨日のルートを逆走したならこれほどのことはなかったろう。
正午前にマックでホットタイムにしたが、早くも疲労感を感じた。
そして、横浜インターから東名にのったのだが、厚木まで渋滞だという。最悪だった。
小一時間渋滞の道を走ってヘトヘトになってしまった。
渋滞を抜けたあとは、何度も何度も休憩をとりながら走った。某サービスエリアでは1時間昼寝してしまった。
しかし、新東名で寄ったサービスエリアはすべて楽しい場所ばかりだった。
某サービスエリアには小さなドッグランがあり、カフェで買ったコーヒーを持って、ドッグラン横のテーブルで犬を眺めていたら、また蚊に刺された。
今度は「マラリア」という文字が頭にひらめいた。ハマダラカじゃないよな。
今夜はワイフが女子会とやらで帰宅が遅いので、ガソリンスタンドで給油し、自宅の近くの中華料理屋でチャーハンを食べて帰宅した。
旅の荷をキャメロンからおろし、それらをすべて片付け、シャワーを浴びて、途中だった原稿の校正を今夜も残りの半分の3分の1やってメール送信し、ゆっくりしている頃にワイフが帰宅した。ご機嫌だったが、厄介な亭主が帰って来て、迷惑そうな印象もあった。
ここでまた事件が起きた。リビングで蚊に刺されたのである。近くに電気蚊取り器が置いてあって、電源はONになっているのに、だ。
明日も仕事がたくさんあるので、わたしはさっさとやすむことにした。
9月14日(日)「多忙でも言い訳にならない・・・の風さん」
新東名のサービスエリアのパン屋で買ったパンで朝食になった。
久しぶりに淹れたコーヒーを仏壇に供え、無事帰宅を報告した。
そのとき、金曜日の講演でお世話になった方から、宅配が届いた。ゴージャスな洋菓子で、パティシェの直筆で、冷蔵して早くお召し上がりください、とあった。
すぐにケータイに電話したら、運良く出てくれて、お礼を述べるとともに、ワイフとも会話してもらった。これまで何度も会っていた。ワイフの庭のアトリエにも来てもらっている。
こうして平和な1日が始まったが、わたしはのんびりしていられない。ワイフも超多忙で、わたしのことなどかまっていられない。
ワイフは庭の草取りにもとりかかった。手伝うことができない私は、みじめな気分になった。
昼食までに、連日校正作業を続けて来た原稿の残りに取り組んで完了させた。メールで送るとあとで(休日にもかかわらず)返信がきた。
来週の水曜日の午前中に打ち合わせる予定である。
昼食後、これも1週間前に送れなかった角倉研究会の原稿の図の作成にとりかかった。
オリジナルなものを作りたかったので、エクセルを活用することにした。
ところが、予想外に大変な作業になってしまい、いつ終わるか分からない状態になった。
夕食を挟んでまだ作業は続いた。
やっと完成してメール送信したのはかなり遅い時刻だった。
そこで寝てしまうとまた上京する明日が大変になるので、せめて旅行の準備だけでもしておくことにした。
就寝は午前1時半を過ぎていた。
ワイフは明日はトールペインティング教室に出かける日だ。
9月15日(月)「移動日でも高密度業務・・・の風さん」
お昼過ぎの電車でまた旅へ出発である。
名鉄電車の中では、JMAのある原稿の校正チェックの続きをした。あらかじめ封筒に両面テープを貼っておいたので、完成原稿を入れて、名古屋駅で投函した。
新幹線車中では、先週できなかった気まぐれ日記を一気に1週間分書いた。これは帰宅してから、念のため読み返してアップする予定だ。
先週に続いて中小企業大学校東京校に向かったのだが、都心からは遠い。品川に着いてから現地着まで1時間半かかった。
寮にチェックイン後、外出し、レストランを探した。1軒しかなかったので、迷うことなくそこに入った。昼食はてきとうに済ませて出て来たので、しっかり食べた。
寮に戻ってからものんびりできなかった。
締め切りを過ぎていたJMAのパンフレット原稿に取り組んだ。内容的にはかなりハイレベルな、そしてクリエイティブなものだった。しかし、こういった困難な仕事というのは、私の性格からいって、モチベーションが高まる。チャレンジ精神をくすぐるからだろう。
着手したときには、気が遠くなりそうだったが、次第に頭が整理できてきて、だんだん形になっていった。しかし、途中でベッドに横たわって体を休めなければ、続けられないほどパワーを要する仕事だった。
その仕事が完了して、ようやく明日の講義の準備になった。
結局、午前2時まで仕事をしてしまった。
今夜は、余裕があれば、久しぶりに新鷹会の勉強会の2次会に出て、急逝した中原さんを忍ぶところだったが、残念ながらできなかった。
9月16日(火)「大きな山を乗り越えた感覚・・・の風さん」
午前7時半起床。約5時間半の睡眠で、自分にとっては十分だと思ったが、朝から頭が重かった。頭痛薬を飲んで乗り切ることにした。
食堂で朝食を摂り、部屋に戻ったが、何となく元気が出ない。まさか潜伏中のデング熱を発したわけでもないだろうが、おそらく体力低下が原因だろうと、しばらくベッドに体を横たえてから、寮をチェックアウトし、講義室へ向かった。
講義開始15分前に着いたが、誰も来ていない。一瞬、受講生が全員わたしの講義を拒否、という週刊誌みたいな文句が頭をよぎった。
しかし、ほどなく笑顔の受講生が一人また一人と現れた。
先週、ひと経験しているので、改善点も含めて、今日は少し余裕があった。問題は体力だけである。
午前中はまたスケジュールよりも1時間遅れたが、時間配分は次回から変える必要があると思った。
今日は受講生同士の会話とディスカッションを多くして、本来の受講生同士からも学ぶスタイルを貫くことにしたが、いちおうお昼休み前にその状態に突入することができた。
昼食は受講生たちと同じテーブルで摂った。彼らの会社には社員食堂といったものはなく、外食か仕出し弁当が普通で、食堂で一緒に食べるのは楽しいようだった。こういう経験は私には新鮮で、非常に勉強になる。
昼休み中に大きな地震(茨城で震度5弱)があったが、午後も私の立てた流れにそってディスカッションが順調に進んだ。
わたしも椅子にすわってサポートできたので、体力的には助かった。
最後に残った時間でまとめの講義をしたが、先週よりスライド枚数を減らしたものの、やはり時間不足になってしまった。これは再び次回の課題だ。
まだ明日のスケジュールがあるが、先月からずっと続いていた仕事の大きな山を乗り越えた感覚があった。
電車を乗り継いで、今夜のホテルに着くと、フロントはチェックインをするために行列ができていた。
わたしはチェックインを後回しにして、レストランに入った。ホテルだが、値段が手頃なことは以前確認してあったからだ。
支払いの時、サービスマンが私を宿泊客と見て確認してきた。フロントが行列していたのでチェックインを後回しにしてここへ来た、と答えると、サービスマンはにこりと笑い、宿泊客割引を適用してくれた。ビジネススクールで勉強したわたしは、サービス業の進歩に感動した。
リーズナブルな料金で美味しい夕食をとったので、今夜はもうどこへも出かけないことにした。
9月17日(水)「出版社と打ち合わせ後家路に・・・の風さん」
チューハイを飲んで爆睡したが、未明に目が覚めた。何もやる気が起きなかった。
シャワーを浴びてから、ふと鏡を見ると、両目が充血していた。
寝不足の筈はないし……と首をかしげつつ、起きがけにさしている花粉症用の目薬をさしたら、またたくうちに治った。充血の原因はアレルギーだった。
朝食は抜いて、チェックアウトし、近くのファミレスへ向かった。出版社と打ち合わせを約束していた。
午前中の前半は11月に出版予定の本についてで、これから急ピッチで仕上げていかねばならない。
途中から別の出版社との打ち合わせになった。こちらは、来年発行の雑誌の件だ。原稿はできているので、それ以外の打ち合わせ。古い知り合いなので、家庭の話など雑談が多い。
昼食後、家路についた。
のんびりこだまに乗車したのだが、LINEゲームばかりやっていた。
睡眠は十分だったのだろう、居眠りをすることもなかった。
途中でパソコンを立ち上げて、気まぐれ日記の続きを書いた。
名古屋での接続もよく、5時過ぎに帰宅できた。
疲れていたが、明日から1泊旅行に出かけるので、その相談をしなければならなかった。
明後日帰宅するまで、すべての仕事は忘れて、のんびりしようと思った。
9月18日(木)「千畳敷カールに感動・・・の風さん」
この時期に計画した旅行の目的は、定年退職記念だった。会社から記念に保養所の割引券をもらっていて、その期限が来月の私の誕生日までだった。
二人とも超多忙の日々を過ごしていたので、とうとうこんなギリギリになってしまったのだ。
30年以上前までは、会社の保養所や契約リゾートに何度か泊まったことがあった。
しかし、次第に多忙になって、せっかくの施設を利用する精神的ゆとりはなくなってしまった。
保養所は長野県にある「こまくさ」というところで、初めて利用する。冬季のスキー客には絶好のポイントだろう。
宿はそこでも、観光目的地はすぐ近くではない。
午前10時半ころゆっくりキャメロンで出発したわたしたちは、中央アルプス千畳敷カールを目指した。もちろん初めて。今回ワイフが選んだ。
中央道駒ケ根ICでおりて、菅の台バスセンター(標高850m)駐車場まで行った。バスが出る1分前に到着したのだが、うまく乗れた。
駐車料金は500円。千畳敷カールまでバスとロープウェイの往復料金が二人で7800円である。それだけの価値があるのだろうか。
バスですぐ山をのぼり始めたら、前方にニホンザルが何匹も出没して目を楽しませてくれた。背中に子ザルを乗せた母ザルもいた。
30分後、しラビ平駅(標高1662m)に着いた。ここまでマイカーは入って来れないのだ。広場にバスが何台も止まっていた。あちこちから観光客が来ているのだろうか。
トイレ休憩後、駒ヶ岳ロープウェイに乗った。7分30秒で千畳敷駅に着いた。標高2612mにある、日本一高いロープウェイ駅だ。
駅舎と売店、宿泊所が集まっている山小屋を抜けて裏に出ると、初めて見る自然の造形美に圧倒された。
晴れ渡り風もない澄んだ空気を通して、2万年前に氷河に削り取られたという、白く尖った無数の巨岩を並べた山肌が、2000m級の山頂に向かって斜面をなしていた。
もう少し早ければ高山植物の花々が、もう少し遅ければ紅葉した植物群が見られたのかもしれないが、今日の最大のもてなしは、この異様な山肌だった。
坂の嫌いなワイフが、好きなロープウェイに乗って来たのもなるほどと思った。
さすがにそびえたつ前方の山頂まで行く余裕はなかったが、八丁板分岐点まで行って、剣ヶ池を回って戻ってきた。途中何度も何度もデジカメで写真を撮った。
山小屋に戻る途中で、急に湧いて来た雲か霧が山肌を覆うという自然現象(脅威)を目の当たりにすることもできた。
風はほとんどなかったが、空気は冷えていて、しかも薄かった。坂道の得意なわたしでさえ、空気の薄さを実感した。
来た時と逆のコースをたどって、駐車場までもどった。平日だったので、混雑も経験することなく、千畳敷カールを堪能できた。
それから小一時間キャメロンで戻る方向へ走って、山村の中にある保養所に着いた。
すべてがゆったりしたスペースで作られた会社が経営している保養所で、滞在客が3〜4組ぐらいしかいないようだった。
大きな浴場をたった一人で独占し、夕食もゆっくり楽しんだ。
ビール大瓶1本と300mlの冷酒を注文したが、二人で飲み切れなかった。
部屋に帰ると、信じられないほどの疲労と睡魔が襲ってきて、そのままベッドにダウンした。まるで、超多忙中のいつもの生活と全く同じだった。
9月19日(金)「美ヶ原高原美術館再訪・・・の風さん」
6時に目が覚めたので、執念でまた大浴場に行った。露天風呂もサウナもすべてたった一人で占有した。
朝食後、部屋に戻ると、あんなに寝たのに、また睡魔が襲ってきて、しばらく座敷で横になった。
それでも今日の予定は変更せず、美ヶ原高原美術館に行くことにした。
午前10時過ぎに保養所を後にした。
岡谷ICでおりて、しばらく町中を走ったのち、和田峠にさしかかった。
ここでハプニングが起きた。有料のトンネルを目前にして、ナビが山越えルートを指示したのだ。
急なつづら坂をギヤをセカンドにして登って行った。すれ違うクルマなど一台もなかった。
扉峠からビーナスラインに入って、お昼すぎに、無事に美ヶ原高原美術館の大駐車場に着いた。
標高2000mにあるここからは、アルプスの大パノラマが展開していて、雲が眼下に見えた。
今日も空は晴れ渡り、風はほとんどなかった。絶好の行楽日和にもかかわらず、ウィークデーだからだろう、観光客も少なかった。
昼食は舞茸の天ぷらが入った信州そばにした。さすが本場物は美味い。
実は30年前に、帰省の途中、二人でここに寄ったことがあった。
8月だったので、ニッコウキスゲが咲いていた。
私の記憶はあいまいだが、ワイフは当時を思い出しつつ、記憶の痕跡をそこかしこに探していた。しかし、30年の月日はハンパではなかった。とうとう「ここに来た」というポイントをワイフは指摘できなかった。
それでも、当時入場しなかった美術館の屋外展示をゆっくり見て回り(350体の彫刻すべてはもちろん無理)、お土産も買って、次のポイントを目指すことにした。
美しの塔である。
ふるさと館の駐車場にキャメロンを止めて、牧場の間の道を歩いたのだが、周囲の眺めはかつて出張で滞在したことのあるドイツの南部地方そっくりだった。
ワイフはさかんにここも歩いた筈だが、道路の雰囲気が違うとため息をついていた。
帰りは同じ道ではつまらないので、アザレアラインから県道67号線を通って松本市内に入り、松本ICからのった。
午後11時に帰宅し、猫たちと再会し、やっと荷物の片付けが終わってから、わたしは古いアルバムを持ち出した。
30年前の写真と現在のネット情報を比較して、当時の散策ルートを推定することができた。今日、歩かなかったルートだった。
次回の課題になった。うまくすれば、当時の写真を撮ったポイントが見つかるかもしれない。
9月20日(土)「久しぶりの異変・・・の風さん」
ワイフは早朝から町内会の草取りに参加したが、わたしは無理だった。
結局、ベッドから出たのは、午後3時半だった。
そろそろ仕事を再開しなければならなかったが、疲労が抜けきれておらず、山道を歩いた足は痛かった。
頭痛薬と花粉症の薬を服用した。頭が重く、鼻水がとまらなかったからだ。
ほとんど何もできないまま夜になり、夕食後もだらだらと過ごした。
そんなとき、突如として異変が起きた。キッチンの流しの上にゴキが出現したのだ。
今年は早い時期からゴキが続けて出て、このまま行くと何匹のゴキを見ることになるかと暗澹たる気分だったが、夏の盛りは全く姿を見せなかった。
その代わりヤスデ(あるいはムカデの子供)がたくさんバスルームで出たので、ヤスデのお蔭で今年はゴキは退場かと思っていた。
しかし、人生甘くはなかった。
ゴキジェットの操作を誤っているうちに、ゴキは床に落下し、そのままどこかへ逃走してしまった。
しばらく動悸がおさまらなかった。
怒涛の日々の直後にふさわしい二日間だったのかもしれない。
9月21日(日)「来世を思う・・・の風さん」
今日から仕事再開と思って起床したが、体がだるく重かった。
いつものように超々多忙の日々が一段落したところで、気まぐれ日記を少しずつしかしいくらかまとめながら更新するのが精一杯。
しばらく休眠中の地元の文章サークルの変形版「マイスタディ講座」が1週間後に迫った。
募集結果がどうなったのか、関係者に電話して確認したところ、(新規応募はゼロだろうと思っていたら)ビックリ仰天、10名もいたらしい。
新しいメンバーを交えて、どうすれば楽しい文章教室ができるか、これから考えなければならない。
信州の旅の写真を整理し終えて、やっと仕事に手がつけられる状態になった。
今日は珍しく蠅が一匹我が家に侵入してきたので、殺虫剤をかけたが、簡単に死ななかった。深夜、つまんで外へ捨てたが、生きるか死ぬかは、こいつの運命次第だ。ああ、わたしは、次に生まれ変わるとき、ゴキや蠅にはなりたくないものだ。
そうそう。ゴキはその後、姿を見せない。
9月22日(月)「やっと仕事を再開・・・の風さん」
丸二日ゆっくりしたので、いくらなんでももう仕事を再開しなければならない。
午前中、角倉研究会の原稿の再提出をした。原書のタイトルに関する、わたしの初歩的なミスを訂正するのが目的だった。こういった研究書は、査読論文を再整理するのであれば、事前に第三者の客観的なチェックが入っているのだが、初めてとなると、どうしてもミスの発見が遅くなる。まだ出版まで半年くらいあるので、できるだけ精度を上げていかなければならない。
11月出版予定の本の原稿は急に佳境に入ってきた。先週の打ち合わせを反映するための作業に昨日から取り掛かっているのだが、今日は難物に引っかかった。原書で使用されている単語の読み方あるいは意味についてである。
原書のデータは2ヶ所の図書館から得ていた。両方を詳細に観察すると、同じ版木から刷られたと思われる。字体がそっくりだからだ。
本文は和文で漢文ではないが、草書体というか崩し字で書かれている。問題の単語は、国語辞典はもとより漢和辞典にもない。造語の可能性がある。
原書の本文の漢字にはかなり振り仮名がふってあるが、問題の単語にはなく(造語だからだろう)、その代わり、左横に意味する内容を仮名で書いてあった。
それが崩し字で、ちょっとやそっとでは読めない文字が含まれていた。
昼食までにはとうてい無理で、用事を済ませるため、キャメロンで外出した。
JAに寄って、振り込みや引き出しをし、役所へ行き、それから大型家電量販店に行き、帰りに給油して家に戻った。
ホットタイム後、崩し字解読作業の続きを始めた。
結局、途中までの解読結果を出版社へ報告し、あとは相談することにした。
今夜の就寝は午前2時を過ぎたが、久しぶりに英語(オーラルというかリスニング)の勉強をした。
1週間後にまたTOEICを受験するのだ。また少し成績を上げたい。
9月23日(火)「何事もチャレンジ・・・の風さん」
朝から背骨が痛い。運動不足による背筋・腹筋力低下は明らかで、筋トレを再開したいが、なかなか余裕ができない。
今日は、土曜日から始まる地元の文章教室「マイスタディ講座」の初回に使用する資料作成をおこなった。
計4回で何らかの達成感を味わってもらうため、あれこれ考えて作ったが、まだまだアイデアが足りない。
夕方、ワイフと墓参に出かけた。
お彼岸である。ヒガンバナも咲いている。
ワイフが花を活け、わたしは墓石を雑巾でぬぐう。雑草も処理するが、毎回せっせと抜いているせいか、あまり草ははえてこない。
線香を上げて家路につくころは、あたりはすっかり暗くなっていた。
お墓が家に近いというのは、本当に便利だ。
11月出版予定の本に関しても、まだまだやるべきことがあるのだが、時間がなくなってきた。
以前、編集者に「某先生の推薦のお言葉を帯に頂戴したい」と提案したことがある。
実現するにはハードルがきわめて高いが、チャレンジしないと後悔だけが残ることになる。
うまくいかなくも、人生の厳しさの一端を味わうことは有意義だ。
深夜、打診のお手紙を書いて、参考資料と一緒に郵送の準備をした。
9月24日(水)「すべての基本はたくさん読むこと・・・の風さん」
気温は低いが、湿度が高く、まだ残暑を少し感じる。
わたしは真夏と同じ格好で名古屋のかかりつけの眼科に電車で出かけた。
先日のトヨタG会社OBの集団検診で、眼底検査が要精密検査となったからである。
何となく古傷がひっかかっただけだろうと思っていたが、良い機会なので、診察を受けに行った。
主治医の院長先生がたまたまお休みで、代診の先生に診てもらった。いくつか検査もして、やはり古傷がひっかかったのだと判明した。
しかし、少し気になるデータも出たので、1、2ヶ月後にまた検査しましょう、ということになった。
帰宅してインスタントラーメンで昼食にしたが、ひどく疲れていた。
天気も下り坂である。
夕方まで昼寝してしまった。
その間に、楠木誠一郎さんの近刊『私立霊界高校 RYOMA召喚』(講談社)が届いた。シリーズ2作目である。
わたしも早く小説の執筆を再開したい。
ドイツにいる次女からハガキが届いた。絵葉書ではない、絵は次女がわたしたち夫婦のために描いたものだ。
しかし、表の文章に感動してしまった。いつのまにこんなに文章が達者になったのだ?
ワイフに言わせると「よく本を読んでましたよ」とのこと。知らなかった。
夜、雑用をせっせと片付けたが、こういった雑用がたっぷり残っていることを実感した。
一方、知人から教えてもらった You Tube で英語のプレゼンの講義を見た。1時間ちょっとで膨大なメッセージを発信していたが、終わりごろに、書くこともプレゼンすることも、良い文章(小説)をたくさん読むことが絶対必要、というのがあり、共感した。
やはりわたしも作家としてもっと文章を書かなければ……。
9月25日(木)「今日も終日文献調査・・・の風さん」
今日は外出して外の用事を一気にすませるつもりだったが、あまりにも屋内の仕事が多く残っていたため来週に延期した。
11月に出版予定の本に掲載する画像データ等の出典について、出版社から問い合わせがあり、それらを一つ一つきちんと調べているだけでほぼ丸一日を費やすことになってしまった。これほどの仕事量になるとは想定外だったので、無理に外出しなくてよかった。外出していたら、今日中に結果を出すのは困難だったろう。
あと、12月のドイツ旅行について、久しぶりにワイフと相談した。
やはり日の短い時期なので、夕方以降の行動は制限される。ホテル内で過ごすだけではもったいないと、やはり外出が意味のあるものにならなければならない。そうなると、クリスマスマーケットの時期である。滞在場所は、夜間、クリスマスマーケットが楽しめる都市にすべきだろう。
そういった見直しがあったが、まだ最終確定まではいたらなかった。
とは言え、このところ、次女からのメールが少ない。そろそろドイツ語の生活(留学)に苦労し始めているのではないだろうか。
来週の月曜日、秋田の国際大学の教授が元の職場に講義に来られることが分かったので、ぜひ聴講したいと思い、申請したところ許可された。
これは楽しみである。
9月26日(金)「企業視察で大収穫・・・の風さん」
今日はJMAの生産技術マネジメント研究会の企業視察があるため、少しでも仕事を片付けておこうと、昨夜は遅くまで頑張った。
その結果、4時間ほどの睡眠で起きることになり、朝から体調は最悪だった。
名駅で事務局と落ち合って、タクシーで現地へ向かった。
東レ愛知工場である。わたしには初めての見学になる。
現場見学はもちろん印象的だった。工場としての操業は73周年くらいになるそうだが、古い設備や施設を現在も有効に使っている。そして、そのオペレーションの完成度が高く、すべてがさりげなく実施されているのだ。何でも説明してくれるが、自慢話には聞こえない。普通にやれているレベルにまで到達するには、相当な熟成期間(技術の完成度を高めること)があったはずだ。
最大の収穫は、今回の研究会のメインテーマである、グローバル時代の生産技術のあり方である。
東レの事業戦略は、高く売れるものを日本で次々に開発して作り続けることだ。東レはグローバル化がどんどん進んでいるが、単にコスト的な問題で海外進出しているわけではない。新興国といえど、遅かれ早かれ経済は発展し、そこで生産することのコスト的な意味は薄れていく。
装置産業の場合は、一度工場を設置したら、30年以上は操業しないと意味がない。
そこで、新興国においても、他社よりも付加価値の高い(少し高く売れる)ものを生産していて、それを維持するため、日本の技術を少しずつ移転しているのだそうだ。つまり、日本におけるビジネスモデルを新興国においても実現しようというのである。
作っているものが繊維で、装置産業という特徴はあるかもしれないが、事業戦略には普遍性があると思った。
そして、そのビジネスモデルを実現するべく、全社統括の生産本部が責任をもち、生産技術者の育成にも取り組んでいることが分かった。
体調は最悪で、フラフラしながら工場を後にし、帰りに、コンタクトを4年ぶりに更新して帰宅した。
体力的には限界だったので、そのままダウンした。
9月27日(土)「マイスタディ講座の第1回・・・の風さん」
昼ごろ御嶽山が噴煙を上げた。きわだった前触れもなかったため、多くの登山客が頂上付近にいた。早朝から登ってお昼ごろに頂上に到達するというのがベストプランだろう。そのピーク時に噴火したのだ。許せない、と毒づいてみても、むなしい。
夕方から地元での文章教室「マイスタディ講座」の第1回をおこなった。
母の死を境に自主開催である文章サークルを中断していた。そろそろ再開してもいいかな、と思っていたが、忙しさにかまけて、ずるずると日を過ごしていた。そこでメンバーが、公式の講座として町内に開くことを提案してくれたのだ。
短い募集期間だったが、定員めいっぱい応募があって、教室は盛況だった。
午前中に準備はすべて整えていたので、今日は、体力の続く限り、趣旨説明と創作の楽しさ、そして文章の基本について語った。
何とか体力ももった。
次回からは、参加者が持ち寄った作品をもとにした講座になる。楽しく有意義な場にしたい。
9月28日(日)「TOEIC受験・・・の風さん」
昨夜は今日のTOEIC受験のため勉強に専念した。しかし、御嶽山のことが非常に気になった。
最初は単なる噴煙を上げた程度だろうと思っていたが、溶岩こそ流れ出していなかったが、噴火と同じだった。多くの登山客が逃げる余裕すらなく、その場で噴火の直撃を受けたようだ。
そのような中、今日も見事に空は秋晴れだった。いや、夏に近いくらい暑かった。
電車で受験会場に向かったのだが、行きの車中では、iPhoneをミュージックプレイヤーにして、TOEIC受験単語を聴き続けた。
会場はささしまにある、まだ校舎の新しい愛知大学だった。初めて来たが立派な建物だ。
TOEICにはいくらか慣れてきたので、今日は受験対策として、2Bの鉛筆を持参した。何せ右手がまだ不自由なので、マークシート方式が苦手である。シャープペンシルの細い芯では、だ円の枠の中を埋めるのに、健常者の何倍もの時間がかかる。太くて柔らかい鉛筆が、私には絶対助けになる(というより、ハンデを埋めることになる)。
この作戦は当たったが、前回ほど英語に耳を慣らしていなかったので、リスニングはよくなかった。もしかするとリーディングは前回より少しよかったかもしれないので、トータルでは変わらないかもしれない。情けない。
9月29日(月)「会社の後輩を頼もしく思った風さんの巻」
秋田の国際教養大学の勝又先生が講義をされるというので、まるで会社員時代に戻ったように早起きし、通勤路の有料道路を通って研修所へ向かった。幸い渋滞に巻き込まれることもなく、早々と着いた。
講義前にご挨拶もできた。たまにメール交換していたので、半年ぶりのような気がしなかった。
先生の講義は終日だったが、時間的に余裕のないわたしは、午前中だけ後ろの方で聴講させてもらった。
午前中は「グローバル人材とは」がテーマだった。私の大きな関心事の一つである。先生の秩序正しいファシリテーションで、次第にこの正体不明のテーマが明らかになってきた。
しかし、今日の最大の収穫は、私にとっては後輩ともいうべき受講生たちだった。ものおじしない若手エンジニアを集めたということだったが、柔軟な発想力と積極さをあわせもった、確かに将来性ある若者たちだった。早いうちに勝又先生の刺激的な講義を受けてもらってよかったと思う。
研修所で昼食をとり、職場懇談会に顔を出し、元同僚と雑談してから研修所を後にし、銀行や郵便局に寄って用事も済ませて帰宅した。
明日は講演のため前泊で富山へ行く。荷物も多いので、足はキャメロンである。楽しみだが、レジュメも講演スライドもまだ作成途中である。
9月30日(火)「キャメロンでドライブを楽しむ・・・の風さん」
富山ではある企業の生産技術者を対象に、作家鳴海風として講演することになっていた。
事前に与えられていた課題はすべて難解なもので、講演を通じて明快なメッセージを発信できる自信はあまりない。
しかも、それらを作家鳴海風として語ってほしいという、難しい注文だった。
これは1月に経験した講演と似ていた。それが成功したとは今でも思えない。
そこで今回は、与えられた課題に対して、3本のミニ講演で対応することにした。そして、作家らしく第1章、第2章、第3章と名付けた。
講演スライドをほぼ完成させたところで、レジュメの作成に着手した。
レジュメを企画担当に送付したのは午前5時ころだった。
それから3時間ほど仮眠してから、朝食を軽く摂り、旅行の準備をし、近所でお土産を購入して、ようやく出発したのは午前11時過ぎだった。
出発したらもうジタバタしてもどうしようもない。のんびり旅行を楽しむしかなかった。
幸い、富山まですべて高速道路である。ハイウェイオアシスやサービスエリアに何度も寄りながら(自分の運転で走るのは初めてのコースだった)、ドライブをエンジョイした。
岐阜県までは天気も好く、ドライブは最高だったが、途中で何度も仮眠というか体を休める必要があった。
その後の東海北陸道は、次々にトンネルになり、数えきれないほど多かった。
富山のホテルに着いたのは、想定ギリギリの午後6時だった。
早々と近所で夕食を摂り、御嶽山のニュースを聴く余裕もなく、ベッドに倒れ込んだ。
2014年10月はここ
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